令和三年のピンホール

20代会社員の撮影にまつわるよもやま話

中上健次と私

 

ご無沙汰しています。

現在新宮行きのきのくに線に揺られながらこの文章を書いています。

リハビリがてら、また熊野旅行前の情報整理も兼ねて小説家・中上健次について私が知っていることをまとめていきます。

 

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中上は今から約30年前に亡くなった和歌山県新宮市出身の小説家で、生前に故郷の文化振興を目的とした組織「熊野大学」を開設した。熊野大学では現在に至るまで、中上の長女・紀氏をはじめとした有志による運営により毎年8月に夏期セミナーが開かれている。2度目の参加を控えた今、改めて前回の熊野大学の思い出等を振り返ってみようと思ったのだ。

 

私が中上健次の作品に初めて触れたのは、2年前の冬、札幌発帯広行の特急列車の中だった。

出発前、札幌駅近くの本屋で移動中に読む本を探していたとき、棚の中で目に留まったのが『日輪の翼』だった。その頃松浦理英子の小説を次々と読んでいた時期で、あとがきの中で中上の名前を挙げていたので存在は知っていた。電車の中で読む本を持っていなかったので、それを持って吹雪の舞う中を移動した。確か夜だったか。

主人公の青年は次から次へ女と交わり、時に風俗で働かせ貢がせることも厭わない無頼の徒である。今風に言うとホスト向きののヒモ体質。小説では、育ての親である7人の老婆を引き連れ、故郷を追われて始まった巡礼の旅の最中の出来事が語られる。この『日輪の翼』を皮切りに、自身の生い立ちを託した主人公・竹原秋幸をめぐる三部作、『千年の愉楽』など、猥雑かつ清冽な中上の世界観に引き込まれていった。

 

熊野大学の存在を知り、南紀白浜空港に降り立ったのは昨年の今日。

チェックインを済ませた夜、持ってきた「新宮歩楽歩楽マップ(小説に登場する地名や建物を照らし合わせた市立図書館発行の地図)」を見ながら夕飯がてら市内を散策することにした。徐福公園がある方の駅前から出発し、ローソンを右手に進んで「アルマン*1」の外観を眺める。

踏切を渡って商店街のある丹鶴町へ向かう。一帯は人気が少なく、学習塾やシャッターの下りた個人商店が並んでいたが、その中に一つだけ煌々と明かりが照るアメリカ風のバーを発見した。この辺りの住民のナイトライフの拠点はここかもしれないと思い、勇気を出して入ってみた。

カウンターの一番奥に通された

店内の奥では数人の男女がビリヤードに興じていた。平均年齢は30代後半くらい。二つ席を挟んだカウンターには40代前半くらいのカップルが座っていて、ビリヤード組と顔見知りらしくたまに奥から客が話しかけに来る。1時間ほど軽食とドリンクで潰した。

そうしているうちに左隣に男性二人が座り、奥に座った赤いシャツを着た人はカップルに所帯を持つことの大切さ(二人は結婚していないらしい)を説き始めた。手前に座った人はマスターとの会話に興じつつ、時折視線を落として黙っていた。酒場特有の軽薄さやはしゃいだ大人たちの態度に馴染もうとはしないおとなしい性格にみえたので、タイミングを見計らって話しかけてみた。山縣さんは生まれも育ちも新宮で、数年前に小さな保険会社を立ち上げたと言い名刺をくれた。明日中上の墓参りに行くことを伝えると、自分は40数年新宮に暮らしているが中上の墓には行ったことがないと言い、翌日一緒に行く約束をした。

それからマスターと店員、山縣さんと4人で、和歌山や新宮についていろいろ教えてもらった。森本という人が長く熊野大学の理事をしていること、おかいさんと茶粥の違い、大阪と名古屋の文化の影響等。

マスターから、熊野大学の受講生だった作家のモブ・ノリオ氏が置いていったという、あるレゲエバンドのために書いたライナーノーツをもらった。

翌日、約束通り午前中に山縣さんと共同墓地に向かった。イオンの近く、食肉処理工場の奥にある駐車場に車を停め歩いていく。中上の墓は墓地の奥まった場所の入り口付近にあり分かりやすかった。私たちの後にも熊野大学の参加者と思しき人が訪れていた。

一旦解散し、夕方再び合流した。中華屋で夕食を済ませ「BGM」に連れて行ってもらう。店名は「バーグレープフルーツムーン」の頭文字からとったものだが、常連から「ぼったくり軍馬」の略だと揶揄われるという。青年漫画の主人公と同じ名前のマスターは紀北町出身で、新橋5丁目のバーで修行したのち新宮に店を開いた。旬の果実を使ったカクテルを楽しみながら身の上話に花を咲かせた。

 

今年の2月には、写真家の渋谷典子氏が生前の中上を写した没後30年の展示を訪れた。作家として多忙を極めていた40代前半の写真がメインで、このために中上が台本を書き下ろした、熊野本宮大社での野外劇「かなかぬち」の上演の様子や直筆台本の複製が展示されている。

意外と字がまるい

渋谷氏は直接中上と話したことはほぼないとおっしゃっていたが、特に印象に残っていると言って、温泉に浸かった半裸の写真を指さした。渋谷氏は雑誌の取材で中上の熊野散策に同行していたが、なかなか撮影には乗り気ではなかったという。それが田辺市内の屋外にあるつぼ湯に入っている様子を取材していると、さぁ撮れ、とおもむろに立ち上がってポーズをとり、渋谷氏を困惑させたという。

 

先に述べたように、作風や生前のエピソードの数々から粗野な性格をイメージされる中上だが、実際に関わりのあった人々は別な印象を受け取っていたという。

この評伝には妙にリアリティを感じる。中上が内に秘めた繊細な心の持ち主でなければ、一連の紀州サーガは生まれなかったと思うからだ。

 

没後も研究書や文庫が出版され続けており、ファンはその軌跡を追いながら、かろうじてあやふやな生前の作家の輪郭を描き出すことしかできない。しかし時を超えた今も、新たな歩みを止めない拠点と可能性を宿した人の輪が広がっていること、色褪せない輝きを放つ作品が存在し読むことが許されている現実を噛みしめ、自分はとても幸運なファンであると胸を張って言えるのだ。

映画『軽蔑』のロケ地になった仲之町商店街

 

*1:現在は旧チャップマン邸という名称で、米国人宣教師家族の住居として建てられた。1952〜78年には「有萬」という名前の旅館で、中上が執筆のために滞在していた。小説『軽蔑』に登場する喫茶店の名前はデュマの小説の登場人物が下敷きになっていると同時に、この建物がモデルとなったと推測される(出典:https://www.walkerplus.com/article/1098456/